ミクタギの自分語り 半世紀以上生きてきた人生の軌跡を…。

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ミクタギの自分語り

小学生編

1.

ミクタギは 北海道S市の山奥で 生まれました。

タクシー会社勤務の父と 専業主婦の母との間に 長男として誕生します。

3つ下の弟と二人兄弟です。

父は仕事柄いないことが多く 晩御飯を一緒に食べた記憶が ありません。

それが理由だったか わかりませんが 母は私の教育に熱心でした。

2.

当時、幼児学習の教材で 学研という会社がありました。

母は私に何十万もする 図鑑セットを買い 勉強させました。

それは近所でも評判になり あそこの子は賢いと噂にも なりました。

当然親戚たちにも伝わり 私は母にとって自慢の息子に なっていきます。

でも それは少し異常でした。

3.

弟がいましたが 母は全く感心を示しません。

いやそれなりには 対応していました。

私に対して過剰だったのです。

そんな母に育てられ 私も当然勘違いし始めます。

子供ながらに有頂天になり 自分は賢いのだと 思い込むようになります。

そうして 鳴り物入りで 小学校に入学します。

4.

小学校での最初のテスト。

自信満々で受けました。

結果は満点 、みんなも羨望の眼差しです。

その後も高得点を重ね やはり自分は頭がよいと 再認識します。

友達も増え学校生活も 楽しくなりました。

しかし一年生の後期に入り

私の成績は少しずつ 翳りを見せ始める ようになってきます。

5.

その後進級し三年生の頃

成績が下がっても それを受け入れられない私は

態度だけは偉そうだったと思う。

当然まわりから少しずつ 虐められるようになる。

そして日常化し 当たり前のように なっていきました。

当時を思い返しても あまり記憶がありません。

6.

虐められるのが日常になり でもそれを母には言えず

おそらく淡々と 生きていたと思います。

そんな生活のまま 四年生になります。

ある日、同級生と一つ年下の ガキ大将コンビに

いつものように 虐められ、私の中で 何かが弾けた。

気付くと自分より大きな 後輩が地面に倒れていた。

7.

現実に戻ると 後輩は私に殴られ 同期生も唖然としていた。

その日から私の二度目の 勘違い人生が始まる。

まわりの目が変わった。 あいつは強い。

誰も虐めなくなった。 いや媚びてくるやつが増えた。

少しずつ有頂天になる私は ガキ大将の道を歩み始めた。

二度目の転落に向かって。

8.

すっかり調子に乗った私は

子分を引っ提げて 威張りまくっていた。

女子にも人気が出て 野球チームまで作って 監督気取り

今思っても最悪のやつだった。

そんな日々が続いた 五年生の終わり

クラスの中に 決して私になびかない 1人の男子がいた。

ある日私はそいつに 仲間に入れと言う。

9.

しかし彼は何も言わない。

痺れを切らした自分は 彼に決闘を申し込む。

当時はそういう時代でした 笑

放課後体育館でいわゆる タイマン勝負を始めた。

殴りかかる私 全く当たらない。

彼は一切手を出さない もう止めようと彼は言う。

止めない私 彼が拳を突き出した。

その後の記憶はない。

10.

気付くと保健室にいた。 彼が側にいる。

ごめんと誤ってきた。 こちらこそごめんと謝る。

彼はボクシングを していたらしい。

それ以前に男として 既に負けていたと思う。

小学生でもわかった。

その後彼とは親友になった。

彼に負けないように キックボクシングも始めた。

中学、高校編

1.

中学生になると 父と母のケンカが増えてきた。

小6の頃から夜、 床についてから

階下から言い争う声が 度々聞こえてきた。

こっそり聞き耳を立てていた。

母は家計を助けるため 小3くらいから働きに出ていた。

その不満と父への不信感が この頃ピークを 迎えたのだと思う。

2.

中1の秋 いつものように

階下から言い争う声 ただ今日のは尋常ではない。

母の金切り声。 物がぶつかり合う音。 思わず階下に降りた。

そこには 見たことのない表情の 父と母がいた。

母に殴られ、引っかかれ ぼろぼろにされた服から

剥き出しになった背中に 無数の引っ掻き傷があった。

3.

結婚前からだったらしい 母と知り合う前から 続いていた女。

13年間騙されていたと 母は怒り狂った。

元々明るい母だ。 色々あったが私は そんな母が大好きだった。

しかしその日から 帰宅すると

母の呪いの言葉を 聞かされ続けることになる。

そして夜は父を罵る。 地獄の始まりだった。

4.

そんな日々が 数ヶ月続いたある日

母は私と弟に 父とこの家を 出ていくように告げた。

母には経済力がない。

これから進学も控え 父といた方が経済的に

安定するから というのが理由だった。

母との最後の日。 弟と3人床を並べて寝た。

いや朝まで話をした。 あの夜は一生忘れない。

5.

その後、家に残った母は

新興宗教にハマり 精神を病んでしまった。

父子家庭になった私は お決まりの ドロップアウトとなる。

当時を思うとやはり 母に捨てられたと思ったのだ。

どうでも良かった。

ただ最後の一線を 越えなかったのは

母の教育のお蔭だったと思う。

そこは感謝している。

6.

中学、高校に関しては 特筆することはない。

というか自分にとって ほとんど意味のない 時代だった。

いや自分でそうして しまったのだと思う。

大学受験までは くだらない毎日が続く。

ただそれを救ってくれたのは 文庫本だった気がする。

今の私の原点になるのだろうか?

青年期~結婚まで

1.

大学は無謀にも 東京の私立大学を目指し 見事に撃沈しました。

一浪してもダメ。 結局地元の私立大学に通います。

でも仕方なく行った所は

やはり続かず2年を待たずに 中退しました。

そこからは 夜の街すすきのに 流れていきました。

若干二十歳。 パブの雇われチーフを 始めたのです。

2.

およそ1年 大変短く、しかし 中身の濃い1年でした。

若者から中年層まで 男女問わず

歌とお酒を楽しめる店 スタッフも男女いました。

私はカウンターで バーテンダーの真似事をしながら

売上げ管理とお客様の お相手をしていました。

時々怖いお兄さんも来ましたが 基本楽しかったです。

3.

そこには 様々なお客様が やってきました。

普通の若者、会社員、 会社社長、

マダムさま 特殊浴場勤務の方まで。

二十歳の若者には 全てが刺激的でした。

店が終われば 毎日のように飲みにいき

給料も年齢に不相応な程 貰っていた。

そんな生活が続いたある日 あの女性がやってきたのです。

4.

女性はある日突然現れ

それからおよそ週に一度 日曜日の夜にやってきた。

日曜日は基本暇で 決まったお客様が多いので

ちょっと浮いた形になる そこで私がついて

お相手をするといった感じです。

基本明るいのですが あまり積極的には話しません。

まったり時が過ぎていく。 そんな感じです。

5.

そんな感じで 3ヶ月程過ぎていきます。

毎週来ていたあの女性が 来なくなりました。

その次の週も、また次も。

そのようなお客様は 結構いますので 珍しいことではありません。

しかし私は気になって 仕方ありません。

いつしか女性が来るのを 待つようになっていたのです。

若かった 笑

6.

それまでも お客様の中に

素敵な女性は たくさんいましたし

お付き合いもなかった 訳ではありませんが

一線は引いていました。 しかしどうも今回は様子が違う。

どうやら気になる存在に なってしまったようです。

来なくなって1ヶ月。 その週の何と平日に 彼女はやって来たのです。

7.

内心ウキウキの私ですが

それは隠して (隠しきれてないかも 笑)

しばらくですね!みたいに 話かけると

プライベートで 色々あったが落ち着いたということでした。

私はダメ元で 落ち着いた記念にご飯でも

とか訳のわからない理由で お誘いしました。

クリスマスキャロルが 流れる時期でした 笑

8.

玉砕覚悟でしたが 意外にも彼女は即答で okしてくれました。

そして翌週の私の休みである 平日に食事に 行くことになりました。

そこで彼女の素性や 今までの経緯が 全て分かりました。

彼女は同業で 来なかった間に元彼と

トラブルを起こし 店を止めていたのです。

日曜日は彼女の休みでした。

9.

ここまでで この女性大丈夫? と思われましたよね?

その通りで非常に 危険な女性でした。

詳細は割愛しますが この件で私は女性恐怖症になり

その後1年以上女性と付き合えなくなりました。

私にとってある意味 忘れられない女です 笑

それを克服できたのは 元嫁との出会いでした。

10.

元嫁との詳細は 割愛させて頂きます。 もう、元なので。

その後、パブを止め

某居酒屋チェーン店に就職 その頃に長女誕生です。

私それまで子どもに 全く興味なかったのですが 可愛いかったですね。

看護師さんに体重測定があると 促されるまで抱っこしてました。

あの光景は一生忘れません。

これまでの補足

1.

母に対して 今でも後悔している ことがある。

中1の時、母が私達兄弟に 父と出ていけと言った際

何故お母さんと 一緒にいたいと 言えなかったのか?

どんなに貧しくても 僕は母と一緒にいたかった。

40年経った今も まだ言えていません。

母が生きているうちに 言わなくてはと思っています。

2.

元嫁との出会いは 先のパブで出会った

危険な女性の同じ店で 働く同僚でして

先ほどは書きませんでしたが 実は二人で一緒に来ていたのです。

危険な女性とのトラブル後 色々と相談に乗って

もらっているうちに 好きになった感じですかね。

結果、元嫁のお蔭で トラブルも解決しましたし。

結婚編

1.

元嫁と一緒に住み始め 居酒屋チェーン店に就職

結婚に向けて準備をする中、1年程経った頃から

少しずつケンカが 増えてきました。

いや当初から争い事は多かった。

しかし若かったのでしょう

乗り越えるたび愛が深まる気がしていました。

ある日決定的なことがあり別れを決断するのです。

2.

お互いに価値観の相違があったことは

薄々気付いていましたが毎日の生活に流されていました。

そんな時、大ケンカをしてもう別れようとなったのです。

そうしてあと数日で部屋を引き払おうという時

勤めていた店に彼女から 電話がありました。

まだ携帯電話の普及 していない時代。

3.

店に電話してくることなどほとんどなかったので

ただ事ではないとは思いました。

涙声の彼女は 妊娠したようだと私に告げました。

その時の私の心境。 今までの流れで想像が つかないと思います。

嬉しかったのです。 その時に思いました。

ああ 彼女のことを 愛しているのだと。

4.

それから私たちは再び結婚に向けて準備を始めます。

彼女の方も吹っ切れたのか前向きに変わっていきました。

両家へ挨拶も済ませ身重だったこともあり

身内だけで式も済ませました。 そして感動の長女誕生。

これから幸せな生活が 待っていると信じていました。 この時はまだ。

5.

父親になった私はとにかく働きました。

頑張り過ぎて血尿が出るくらい。

体重も52kgまで減りました。でも辛くはなかった。

しかしその頃から彼女の様子がおかしくなってきたのです。

長女は夜泣きがひどくミルクも少ししか飲まない。

何度も起きるのです。 私が深夜に帰宅してもそれは続きます。

6.

育児ノイローゼだった。

その頃から彼女はイライラしていたかと思うと急に無気力。

訪問販売で高額商品を購入したり

私の留守中、毎日のように寿司の出前を頼んだり。

夜、私がいないことも 災いしたと思います。

瞬く間に家計は圧迫され

終には娘を預けて夜のバイトを始めたのです。

7.

先に仕事が終わった方が娘を迎えにいく。

まだ2歳にも なっていませんでした。

眠っている娘を起こして連れ帰る情けなさ。

小さな我が子に対する申し訳なさで一杯でした。

それでも早く借金を返済出来ればと希望を持ちましたが

彼女はバイトした金を好きに使い出したのです。

8.

それを咎めると自分で働いた金だと 逆上します。

職場の上司に相談すると一度病院に行った方がいい。

そう言われすぐに連れていきました。 抵抗はしませんでした。

診断は病気ではないということでした。

精神的な疲労の蓄積 育児ノイローゼ

環境を変える必要があるそう言われました。

9.

彼女は決して娘を虐待していた訳ではありません。

ちゃんと世話もしていましたし可愛がっていました。

育児書を読んで勉強もしていました。

私が夜いないことが不安とプレッシャーを与えていたのだろう。

そう判断した私は職を変え、

私の実家に世話になることを決めたのです。

10.

目的は2つ。 実家に移り家賃を浮かせる。

高収入の仕事を選びそれらにより借金返済の時期を早める。

そのために実家の母にお世話になることにしました。

その頃、 母の病状も随分良くなり孫の可愛さもあり

これでようやく生活の軌道修正が出来る。 私は仕事に没頭しました。

11.

夜の世界から昼の仕事に 営業という仕事は

大変な仕事でしたが やれないことはないと思った。

何より売れば売るほど 収入は上がった。 訪問販売のはしりである。

ようやく目処が立つと思われた頃 母と彼女の嫁姑問題が勃発。

結局終結せず 私達家族は実家を離れることになった。

12.

24歳で結婚しこの頃27歳を迎えていた。

長女も3歳になっていた。 ぼちぼち小学校の問題も出てくる。

それも踏まえ地域を限定して住まい探しを進めた。

何とか見つかり私も鬼のように稼ぎようやく平静を取り戻した。

娘が幼稚園へ通いだした頃 彼女は二人目が欲しいと言い出した。

13.

結局彼女に圧され1年後二女が誕生することになる。

ここからの約10年は安定期に入っていきます。

自分は必ず幸せな家庭を作るそう夢みていた私は

やっと夢が叶ったと安心してしまいました。

思えばこの頃既に破滅への序曲が始まっていたのかもしれません。

気付かぬうちに。

14.

次女が出来て 彼女は変わりました。

精神状態も安定し私も毎日帰るのが 楽しみになりました。

娘たちは二人ともママっ子でしたが

私も含めた4人でいるのが楽しいようでした。

長女が小学校に上がり 次女の幼稚園を考え始めた頃

将来性を考え今の会社に転職しました。 33歳の年。

15.

今の会社に入り私は出張がちになります。

多い時は月の半分くらい。

それでも特に問題なく 生活できているつもりでした。

しかしこの頃から 少しずつ彼女との

コミュニケーションが減っていったような今考えるとそう思います。

そして私が35歳の時 思わぬ出来事が起こったのです。

16.

ある日、取引先近くのコンビニで

買い物していてお昼どき混んでいました。

私はあと一人で順番だった。

その前の人がモタモタしている。

どうも財布が見当たらないらしい。

レジの人も困り顔 料金を見ると350円。

私は小銭を出しこれでお願いします。

振り向いたその女性は 唖然としていた。

17.

その女性は困りますと言ったが

私は混んでいるからとりあえずと女性を促した。

会計を済ませ店の外に出るとさっきの女性が。

お金を返したいので連絡先をと言う。

私は大した金額ではないので次会った時でいいと言った。

しかし女性は食い下がる。 仕方ないので名刺を渡した。

18.

必ず連絡します 名刺と共にそう言い残し女性は去って行った。

かなり若い 後でわかったのだが22歳きれいな顔立ちの女性だった。

350円だからな そこまで真剣にならなくても。

変わった子だと思いながら次の仕事先に向かった。

彼女から連絡が入ったのは1週間ほど経ってからだった。

19.

あの女性とはその後 何度か食事をすることになる。

京都から単身 北海道に来ていた彼女は

あまり知り合いがいなく 寂しかったのだと思う。

私はほだされ 誘いに乗ってしまった。

いや私も彼女に好意を持ってしまったのだ。

しかし不器用な私の行動は 元妻の疑念を誘ってしまう。

20.

このままでは 彼女に入れ込んでしまう。

家庭を壊すことは どうしても出来ない。

思い悩んだ私は彼女との 連絡を断つ決心をする。

この判断は今でも 後悔していない。

しかし男としては どうだったのだろうと 疑問に思う。

私はやはりまっすぐの道しか 歩けないことを痛感する。

21.

このことで 妻と子供たちをこれからも守っていく。

改めて認識した私は 更に仕事に没頭していく。

会社でもどんどんキャリアアップし社会的地位も上がっていく。

そこに生きがいを見た私は

その後仕事仕事で家庭から少しずつ離れていく。

私の思いと現実は 離れていってしまう。

22.

結婚生活は17年。

心が乱れたのは 後にも先にもこの一回です。

この後、 仕事よりではありましたが

自分なりに家庭のことは考えたつもりです。

娘たちとこの頃 猫ちゃんたちも来ましたので

このまま人生観の終盤を 迎えるものだと疑いもしませんでした。

人生はわかりません。

これまでの補足

1.

結婚生活を振り返ると

まあ融通の効かない所はあったと思うが

結構頑張ったのではと 自分では思っている。

20代は出張費を浮かせるため 基本、車中泊

夕食もスーパーの見切り品で 済ませた。

食料品の買い出しや幼稚園

学校行事の送り迎えは 仕事の合間に行った。

家族が大事だった。

2.

仕事はどんどん忙しくなる。

少しずつ毎日の家族フォローが きつくなってくる。

仕事との板挟みで追い詰められ 元妻とのケンカが増えてくる。

徐々に二人の間が ギクシャクしてくる。

私の出張が増えそれに拍車が掛かるが

それでも子供たちも含め 仲が悪いとまでは いかないつもりだった。

3.

そんな時、 私の父が亡くなった。

思えば父とはまともに話をしたことがない。

母とのことが影響して恨んでいたのだろう。

この歳になり 男同士ゆっくり語り合うのも悪くなかったと思う。

そんなわだかまりを理解していた元妻も悲しんでくれた。

当の私は1滴の涙も出なかった。

4.

人間として どこかおかしいのだろうか?

親が死んで泣かないって

自分で自分が良く分からなくなっていきました。

この頃から 自分の愛というものに疑問を抱き始めたのです。

より一層 家族というものを

追い求める気持ちが強まっていったと思います。

しかし元妻の心は違ったのです。

離婚編

1.

父が亡くなった年。 私の仕事が花開いた。

5年間の営業努力が数字に繋がったのです。

ここから私の仕事はうなぎ登り。

それに反比例するように家族の間には

不穏な空気が流れるようになってきました。

その時の私は まだ気付いていません。

出張で家を空けることも増えてきました。

2.

仕事はどんどん増える。

出張から帰ってきても みんな喜んで迎えてくれる。

私としては幸せの絶頂。

このまま頑張ればいいんだと疑いもしませんでした。

しかし後から考えるとこの頃から元妻が私にあれこれ

要求することがなくなってきました。

日中買い出しに 呼ばれることも。

3.

友達の所に遊びに行く。

そう言って夜、家を空ける ようになってきました。

いつも頑張ってくれている元妻に息抜きをして欲しくて

何の疑いもなく行かせていました。

私がいるので子供たちのことも 心配ありません。

今考えるとこの時がターニングポイント だったと思います。

4.

38歳の時に父を亡くした。

その年に猫ちゃん達が やってきた。

それから3年後 元妻の様子がおかしくなった。

ある日娘達と元妻が言い争っている。

子どもたちが何故夜出掛けなければ

いけないのかと問い詰めている。

娘たちは元妻の異変にとっくに気付いていたのだ。

その時私も。

5.

娘たちと元妻のやり取りを聞いて

ここで初めて真実に気付いた私はやはり馬鹿だったのかな?

元妻の誕生日を祝った1週間後のことです。

自分からは尋ねない。

何というか一種の 意地のような感情があった。

北京五輪の年、11月の初旬元妻から離婚して欲しいと告げられた。

6.

元妻がパートに出て3ヶ月後のことだった。

下の子が修学旅行で 一泊の予定、

私も出張の日有りがちなパート先の社員でバツイチの男だった。

元妻よりいくつか年下の。 それ以降、元妻の夜遊びが始まったのだ。

何も知らず私は男の元へ彼女を送り出していた。

3ヶ月以上も気付かずに。

7.

露ほども疑わなかった。 元妻はそれを無関心という。

確かに数年間スキンシップのようなものもめっきり減っていた。

仕事に忙殺されていた私にも責任はあると思う。

全てなかったことにするからもう一度やり直せないか尋ねた。

私は女として生きていきたい。それが元妻の答えだった。

8.

ここから元妻が家を出るまでの1ヶ月程が本当に地獄だった。

彼女は徐々に準備をし 翌春くらいを予定していた。

娘たちは引き取ると言った。 それも仕方ないと思った。

しかし相手の男も一緒だと言う。

渋々納得していた娘たちも これには憤慨した。

この時、娘たちを 自分で育てる決心をした。

9.

元妻は案外あっさり納得した。

あれほど娘たちや猫たちを可愛がっていたのが嘘のように

それならばせめて出ていくまでの間夜の外出は控えて欲しい。

それすらも元妻は拒否した。それを罵る長女は叩かれた。

私の中の何かが壊れた。その場で元妻を叩き出した。

17年が簡単に崩壊した。

10.

少し遡ります。

元妻が他に好きな人が出来たというので連れてこいと言った。

娘たちの気持ちも伝えねばならない。

やつはのこのこやってきた。 第一印象。

俺はこいつに負けたのか! 情けなかった。

少し話をしても 申し訳ないが彼女を愛していますのみ。

早々にお引き取り願った。

11.

あんたみたいに何でも正しく出来る人間ばかりじゃない。

元妻に言われた言葉です。

知らず知らずのうちに 追い詰めていたんでしょう。

何でこんなことになってしまったのか?

ほんの少し歯車が狂っただけで人生はわかりません。

子供の頃に続き 自分で築いた家庭まで壊れるのは一瞬でした。

12.

パパとママは 私の自慢なんだ! 中学時代の長女の言葉。

離婚が決まった後 次女が置き忘れた手帳に

「もう、仕方ないのはわかってる。

でも、もう一回だけ皆でドライブに行きたかった。

お姉ちゃんと昼寝して前でパパとママがお話して 。幸せだったな。」

13.

自分は何て可哀想なことをこの子たちにしてしまったのか。

自分も経験済みだけに痛いほどわかった。

仕事をしていても 車を運転していても 買い物中、

あらゆる場面で 訳もなく涙が溢れます。

娘たちを思い、 自分のこれまでを思い

それなりに幸せだった 家族を思い 無力だった自分に。

14.

娘たちと一緒に生活をする。

これがなければ 自分は今頃どうしていただろう。

猫ちゃんたちの存在も大きかった。

久しぶりに母に会いに行き 離婚を伝えた。

開口一番、仕事は絶対止めるな。

多くの幸運が重なり 今、私はここにいます。

最大のものを失い 最良のものを得られたのかもしれない。

15.

この時の気持ち皆さんに伝わっているだろうか?

何をしていても溢れてくる涙。積み上げてきたはずの結婚生活。

すべて無駄だったと四十を越えて思い知らされた。

私はどうすれば良かったのか? それは途方もないことです。

シンパパ編

1.

離婚調停を経てシングルとなった。

娘たちと3人の生活は 最初から悲惨な状態だった。

火が消えたようにそれぞれが自室に籠る日々。

今考えてもゾッとします。

娘たちの希望で夕飯だけは 元嫁が作りに来ていた。

私に出来ることは少しでも娘たちの思いを叶えること。

無力な父でした。

2.

この時 長女は高校2年 次女は小学6年でした。

まだまだ母親の必要な時期 困ったのは女の子特有の事情でしたね。

その辺は判らなかったし微妙な年頃には

父親に触れられたくない部分でもあったでしょう。

そのあたりは長女に感謝しています。

その長女もキツかったと思います。

3.

自慢に思っていた両親に裏切られた娘たちの気持ちは

とてつもないものだったと思います。 次女の日記に綴られた思い。

16歳にして母親代わりもしなければならなかった長女の負担。

二人ともママが大好きでした。

しかしその時は それを思い遣る余裕は 私にはなかったのです。

4.

それから私は 仕事に没頭した。

私のいない日の夕食以外は 家事もこなしました。

上手ではなかったですが 笑

娘たちとのコミュニケーションはやはり減ってしまいました。

それぞれがそれぞれにこの問題をどうやって消化していくか。

それだけで精一杯だったのです。 心は疲れ切っていました。

5.

24才から41才までほぼ真面目に家庭一筋だった私は

時より夜の街に 繰り出すようになります。

久しぶりに味わうきらびやかな世界は刺激にはなりましたが

接待の延長線上で何かが変わることもなかった。

基本、聞き上手の私はお店の女の子の話を

聞いてあげる感じに なってしまう。

6.

寂しい時はダメですね。

ちょっとした優しい言葉にぐらっときてしまう。

でも女性に対してのアレルギーというか

話の裏をどうしても考えてしまう。

何度かお付き合いすることも ありましたが

心の隙間が埋まることはありませんでした。

虚しく家に帰り 癒してくれたのは二人の猫ちゃんでした。

7.

動物に走ると結婚できないとか どうでも良かった。

本当に疲れ切っていて猫ちゃんには癒された。

これは娘たちも同じと思う。

馬鹿にされるかもしれないけど本当に感謝してるよ。

そんなこんなして私も娘たちも少しずつ 回復してきました。

もちろん忘れた訳ではないが前に進み始めた。

8.

長女は高校受験に失敗したことを教訓に

その後の人生設計をしっかり立てていた。

親の離婚も 大きく影響しただろう。

医療系の専門学校を出て医療事務の仕事に就いた。

28才になった今もバリバリ働いている。 結婚する気配はない。

自分が思うように 生きていって欲しい。性格が私そっくり。

9.

次女が母親を引き摺って引きこもり気味でしたが

高校、大学と無難に過ごし去年就職しましたが

数ヶ月で止めてしまい今年の2月に24才で 結婚しました。

性格は長女と正反対なのでよくケンカしてます。

でも旦那さんが挨拶に来た時

妹をよろしくお願いしますと言ったのは感動しました。

10.

自分語りいよいよ終盤に なってきました。

この後は 仕事上で今に至るまでの変遷。

母親との確執から現在まで。

挑戦に拘る理由。 などを語っていく予定です。

思いの外、身を削る作業でちょっとびっくりしています。

それほど人の人生とは

重く計りしれないものだと強く実感しています。

これまでの補足 そして未来へ

1.

自分語りをする上で母のことは避けて通れないと思う。

13才で父と弟と家を出てそれからしばらくは離れて暮らした。

中学生の多感な時期。 自分だけお弁当がないのが 一番辛かった。

こうなった原因を作った父親を憎み

自分たちを追い出した母を憎んだ。 お決まりに道を外れた。

2.

しょうもない仲間たちと夜遊びを始めた。

最初はドキドキして楽しかった。でも性にあわなかった。

直ぐに詰まらなくなり1人で行動するようになる。

ふらっと知らない町まで出掛けたり。

そんな時、 母に会いに行こうと実家へ足を運んだ。

2年振りに会う母は 正気ではなかった。

3.

有りがちなことです。母は新興宗教に嵌まった。

元々霊感めいたものを持っていて波長があってしまったのか。

話をしても噛み合わない。

自分の気持ちをわかって欲しいだけなのに話はどんどんずれていく。

それ以来母のところに行くことはなくなった。親子関係が断絶した。

4.

月日が経ち 父が私に母と再婚すると言い出した。

高校一年の時だ。かなり症状も 落ち着いたという。

久しぶりに会う母は昔の母に戻っていた。

嬉しかった。 また前のように暮らせる。

新しい生活を高校入学と共に始め

新たな気持ちで学校生活を送った。

勉強や部活に励むようになる。

5.

高校生活は順調だった。

志望大学を東京の私大に絞り勉強に勤しんだ。

部活や恋愛夜遊びも楽しんだ。

幸せな毎日だった。 終わりは突然現れた。

高校二年の秋 帰宅すると玄関で信じられない光景が

母が父の髪の毛を鷲掴みにし仁王立ちをしていた。

止めに入ったがびくともしなかった。

6.

躁鬱病と診断された。しかし今でも信じていない。

あの時の父の髪の毛を掴んでいた母の力は尋常ではなかった。

空手で鍛えた私の力で微動だにしなかった。

あれは超常現象だと今でも思っている。

再び私たち家族は 離ればなれに暮らすことになる。

母は実家に 私たちは新しい家に。

7.

またも絶望した私はここから全てにおいて中途半端になる。

勉強も人付き合いも部活も。学校も行ったり行かなかったり。

三年の時は出席日数ギリギリ。

補修を受けて何とか卒業 大学受験も失敗に終わる。

再発した母は 実家で1人生活を続け 夜、

奇声をあげて外を走り回っていたようだ。

8.

結局その後も母の症状は良くなり悪くなりの繰り返し。

完治することはなかった。

私が未だに母に拘るのは思いを受け止めて貰えなかったから。

母が辛かったのはわかる。

父に裏切られ13年以上に渡り偽りの生活の中にいた。

真面目な母が壊れたのは仕方のないことだと思う。

9.

しかしわかって欲しかった13才の子が

ある日突然親の事情で不本意な生活を余儀なくされる。

小さい時から道しるべだった

母がいなくなりどれだけ途方に暮れたか。

母親のいない学校生活がどれだけ辛かったか。

誰もいない家に帰るのがどれだけ寂しかったか。

ただ知って欲しかった。

10.

今、母は特養にいます。

15年前に父が亡くなった後 驚くほど症状が改善された。

憑き物が落ちたようだ。コロナの絡みで 会うことは出来ない。

あれからずっと言えない。母に当時の思いを。

昔とは違う今なら受け止めて貰える。

頭ではわかっていてもどうしても言葉に出来ません。

11.

母は81歳になりました。生きているうちに思いを伝えられるかな。

今わたしは迷っています。どうしたら良いか?

母に今さら伝えて悲しませるのでは?

いやしっかり伝えて自分の中の蟠りを解放するべきでは?

なかなか答えは出ません。

お母さん貧しくても 一緒に暮らしたかったよ。

12.

仕事に関しては 何でもやりました。

情報処理系の大学を除籍になり

意外だと言われるパブの雇われチーフを1年

その後は某居酒屋チェーンに就職します。

この時22才1年後に結婚し26才まで勤めます。

約4年で退社しました。

家庭を持ち張り切り過ぎて心身ともに限界でした。

13.

家庭があるのでいつまでも休んでいられません。

直ぐに職探し借金もあったのでとにかくたくさん稼げる所

次に就職したのは教育系の訪問販売会社でした。

今なら警察のお世話になりそうなこともやりましたね。

ここは1年くらい。

子供相手に誘導するような販売手法に限界を感じた。

14.

お金のためとはいえ自分は騙すような商売はしたくない。

その後、いくつか訪問販売を繰り返し今の仕事に就きました。

33才になっていました。もう営業はしたくない。

そう思いアフターサービス 部門で入社しました。

自社製品の修理業務です。新たな道を歩むはずでした。

15.

北海道の営業所に配属され修理に明け暮れました。

初めてやる職種でしたがなかなか面白い。

体力的にはキツかったがまだ若かったので気にならなかった。

このまま今の仕事を極める覚悟で望みました。

しかし運命の神様は私を再び営業へと向かわせたのです。

思いがけないことでした。

16.

当時の営業所長が失脚した。

新設の営業所だったため顧客がほとんどいない。

新規開拓が全く進まなかったことが原因だ。

もう一人いた営業マンもダメ。

営業経験があるのは 私しかいなかった。

このままでは営業所閉鎖もあり得る。

やむ無く私は再び営業職に就くことになった。

17.

ノウハウはわかっている。

しかし余りにも認知度が低い。

私はまず北海道内全ての顧客を訪問した。

新規、既存を問わず。まあほとんどが新規だったが。

定期訪問を3年続けた頃から少しずつ仕事を戴けるようになってきた。

その頃営業所長に就任した。38才になっていた。

18.

その年、父が亡くなるのを待っていたかのように仕事が花開く。

訪問していた新規顧客から次々に仕事が舞い込んだ。

年間数百万しかなかった売上がこの年5億円を越えた。

忙しくなった営業訪問、プラン設計、提案 案件受注、

工程会議、現場施工 納品、集金、目まぐるしい日々だった。

19.

仕事に忙殺される中家庭は壊れてしまった。

41才の時。それからも忙しい日々は続いた。

それが救いだったかもしれない。

仕事に明け暮れ 少しずつ自分を取り戻した。

お陰で全国でも1、2を争う 営業所になった。

事務所改装プランや 人員体制、業務オペレーション

見直しなど城作りを始めた。

20.

離婚後も仕事の忙しさは続いた。

これが私には幸運だった。あれこれ考える余裕がなかった。

それがなかったら今頃どうなっていたか分からない。

仕事に没頭する中で色んなことに折り合いをつけてきた。

忘れるのではなく封じ込めるというイメージ。

やがてその歪みは現れる。

21.

38才から始まった忙しさは10年続いた。

気付けば50を目前にしていた。

客先を訪問し現場を纏め上げ接待の日々。

虚しさを感じ始めていた。娘たちも独り立ちしていく。

そんな時 同い年の顧客担当者から

ゴルフ部に入らないかと誘いを受けた。

ゴルフの苦手だった私は二の足を踏む。

22.

熱心な勧誘を受けた私は入部を決意する。

回りはゴルフコンペでよく会う上級者ばかり。

当時の私のスコアは120~130 ただのお荷物だった。

しかし私を誘った人は

この部の部長で何かとフォローしてくれた。

活動する中で私には根本的な体力がないことが露呈されてきた。

23.

長年の不摂生が祟り体力が絶望的に落ちていた。

その部長は次にランニング部に入らないかと誘ってくる。

全てが計算されていたかのように。

私は二つ返事で誘いを受けた。

最初はウォーキングから徐々に走る距離を増やし

少しずつ走れるように なってきた。今までにない達成感だった。

24.

次に部長はマラソン大会に出てみないかと誘ってくる。

当然参加する。初めてハーフマラソンに出場することになった。

トレーニングを始めて一年後の事だった。

多少歩いてしまったが制限時間内に完走できた。嬉しかった。

仕事で感じたことのないなんと言うか生きている実感だった。

25.

その部長さんは仕事を通じて私との会話の中で

何かを感じてくれていたのだろう。

おそらく彼も同じような時期があったのかもしれない。

その後も走り続け昨年フルマラソンを完走した。

ゴルフも体力がついたことで一昨年100切りにも成功した。

彼には感謝しきれない。人生を変えてくれた。

26.

昨年の暮れ。

フルマラソン完走で燃え尽き症候群だった私は

マナブさんの ユーチューブに出会った。衝撃的だった。

ブログとの出会いだ。若い頃に考えたことが なかった訳ではない。

しかし素人が手を出せる ものではなかった。

だが今はひょっとしたら出来るかもしれないものになっていた。

27.

下調べをして今年の正月にワードプレスを立ち上げた。

まず自分が出来ること。営業ノウハウに関する記事を書き貯めた。

そして1月の下旬記事の公開を始めた。

記事を少しでも多くの人たちに見てもらいたい。

誰かの役にたちたい。何か手段はないか?

ツイッターとの出会いだった。

28.

そして今 私はここにいます。挑戦という スローガンを掲げて。

本当に山あり谷ありの人生だったと思う。

幾多の危機があった。その危機を救ってくれたのはいつも挑戦だった。

挑戦し達成することで生きていることを実感する。

そしてツイッターで共感することの素晴らしさを知った。

29.

長くお付き合いありがとうございました。

私の挑戦はまだこれからです。

マラソンもゴルフも 挑戦することで一生の付き合いに出来た。

今、ブログ、ツイッター お休みしているプログラミングも

そういうものにしていきたい。この命ある限り 私の挑戦は続きます。

どこまでもずっと。

30.

皆さん! 本当に有難うございました。

たくさんのご意見、ご声援 何とか完走出来ました。

正直に言うと途中で止めようとも考えました。

私の半生を語って皆さんに何の意味があるのかと。

でもそんなことない。共感してくれる人も たくさんいた。

それが嬉しかったです。有難う。

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コメント

  1. ミクタギヒストリー面白かったです。お母さんに思いを伝えられるといいですね。これからも応援しています!

    • ななさん!

      いつもありがとう!

      母に思いを伝えられる日が

      来ることを信じています!笑

      • ミクタギヒストリーを食い入るように、いっきに読み切りました。
        ミクタギさんのチャレンジを応援しています!!

        • くらみえさん!

          ありがとうね。

          凄く嬉しいです。

          これからもよろしくね!

  2. ミクタギさん

    波乱万丈のヒストリーを読ませて頂きました。

    辛い想いも沢山されて来られたのですね。

    親になってみて親の苦労もわかる

    だけど子供の寂しさや苦労も知って欲しい

    親は、きっとわかっていた、わかっているのだと思いたいですね!

    • こばゆかさん!
      コメントありがとうございます。

      そうですね。
      今となってはそうだったと信じたいです。
      出来る事ならもう一度やり直してみたいですね。

      読んで頂いて感謝いたします。

  3. 拝読致しました。度々自らの人生と重なる部分もあり、様々な感情を感じながら読ませていただきました。
    貴重な人生のお話をお聞き出来たこと、感謝しています。

    • めぐるさん。
      いつも有難うございます。
      読んで頂いて本当に感謝です。
      この自分語りは自らの原点として、これからも心に残していきたいです。

      この度はお気を落としの事と存じます。
      お気持ちは痛いほど分かり、なので大変心配しておりました。
      昨日ラジオに来て頂いて少し安心しました。
      ゆっくりと心を静めていきましょう。

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