クラウゼヴィッツ ピーター・パレット 戦争論の第一人者。

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「戦争論」の誕生

はじめに

当時、近世ヨーロッパは

貴族政治から絶対君主制へと

移行していた。

その反面、貴族時代の

階級社会は根強く残り

国民力は低下していた。

クラウゼヴィッツは

この国民力を上げることに着目し

軍事力の向上を目指した。

その軍事力と政治力を結び付け

戦争を組織建てて考えた

稀有な存在であった。

クラウゼヴィッツの生い立ち

フリードリヒ大王による

プロイセン国家の

士官候補生として入隊した父は

エリートで家柄も貴族の血を

引き継いでいると思われた。

しかしそれは対面を気にする

両親の建前だった。

このプライドの高さが

後のクラウゼヴィッツの生き方に

大きな影響を与えた。

幼少期から野心が強く

地位は世襲ではなく

実力で掴むものと信じていた。

フランス革命とその影響

クラウゼヴィッツは

フランス革命の鎮圧に

一生を捧げた立場上

革命に好感は持っていない。

ポーランド系ドイツ人である彼は

フランス革命のナポレオンについて

政治や社会が生み出したというより

一種の性格異常者と見ていた。

当時のフランスは

貴族政治から絶対君主制に変わり

貴族の特権は一般社会いわゆる

中産市民階級(ブルジョア)

とのみ残存した。

しかし中産市民の生活向上により

君主 → 貴族 → 中産市民階級が

君主 → 中産市民階級 → 貴族に

序列が変わりつつあった。

これが社会に歪みを作り

フランス革命へと進んでいく。

革命に盛り上がる

フランスに対して

当時の隣国プロイセン大国は

(後のドイツ)

内政干渉を行い攻め込んだ。

一方、

この戦いに意味を見出せない

プロイセン軍は士気は高まらない。

その差は歴然で徐々に

ドイツ領を侵攻される。

だが統率が取れ内部的に

纏まった組織であるプロイセンは

まだ荒削りで足並みの揃わない

フランス軍に対して徐々に

巻き返しを見せる。

終には占領されていた

マインツを奪還した。

フランス革命から6年後

1795年バーゼル講和条約

により和平を結ぶ。

この時、

旗手として戦いに参加していた

クラウゼヴィッツは15歳だった。

彼は当時のフランス軍に対して

機動力の無さと合同作戦の欠如

すなわち歩兵と騎兵の協調体制が

出来ていないのが弱点とみていた。

しかしその後フランス軍は

それらを克服し

軍力をあげていき

その後20年に渡り勝ち続ける。

彼の戦争論に大きな影響を与えた。

駐屯地生活と人間形成

階級の変化に伴い

学問・教育の分野にも

変革の動きが見え始めてきた。

以前は特権階級のものであった

学問があらゆる階層に学ぶ

チャンスが訪れたのだ。

クラウゼヴィッツも

この時代の恩恵を受けた。

兵役の合間の田舎での暮らしが

学問にも大きな影響を与えた。

やがてこの作品変革は

いくつかの秘密結社の形成を促し

社会に影響を与えた。

クラウゼヴィッツは

この動きを軽蔑していた。

学問とは徒党を組まなくても

己の覚悟で果たせると考えていた。

多感な時期を田舎で暮らした彼は

その後生涯を閉じるまで

そこに戻ることはなかった。

第二の父、シャルンホルストに会う

1795年のバーゼル講和条約以降

フランスがかつての国力を

取り戻すことにより

ヨーロッパの勢力図に

変化が起こった。

これはドイツの政治情勢に

大きな影響を与えた。

フランスはオーストリアを降伏させ

イギリス・ロシアを撤退させ

ドイツに内政干渉を始めた。

ドイツ帝国内で勢力を拡大した

プロイセンもドイツ北部に

封じ込められた。

オーストリアの敗北は

プロイセンのヨーロッパでの

立場を悪くしていった。

この後、様々な戦略が失敗に終わり

プロイセン内にも

ナポレオンに逆らうなという

声が増えていき

やがてどんどん衰退していった。

このような海外での現実に対し

プロイセン国民の意識は

大きくずれていた。

これは海外での政策は

失敗していたが

国内での経済や文化の保全は

為されていたからだ。

しかしそれも長くは続かず

国民の間に世紀末的な

風潮が流れ始めた。

そのためプロイセン国は

対外的なことは無視し

国内の無事平穏に徹する。

そのような国内情勢の中

1801年、シャルンホルストの

イギリス軍からの移籍が行われた。

これはプロイセン軍の

非プロイセン人率の

高さが影響していた。

プロイセン国の思惑と

シャルンホルストのそれとは

少し乖離していたが

それはさておき

殺戮を嫌悪する彼は

守りを固めることで

戦いが減ることを理想とした。

また徴兵志願者を増やすことで

軍兵の勤務時間を減らし

国全体で国を守る

意識を植え付けた。

昇進欲も持っていた彼は

イギリス国内でも

フランス軍の自由な戦いが

勝利に繋がっているなどと

自説を説いたが

出世していくのは

それに異を唱えるものばかり。

嫌気が刺した彼は

プロイセン軍の誘いを受ける。

プロイセン軍は

彼の要求をほぼ呑み

自尊心を満たした。

これからは実力も認められ

出世出来ると期待した。

この時シャルンホルスト46歳。

一見パッとしない身なりもあり

当初は受け入れられなかった彼は

よそ者改革者の

レッテルを貼られる。

プロイセン軍の上層部に

指導者の問題について

進言するも却下。

散々な船出だったが

軍事教育について任され

「軍事協会」を設立すると共に

軍全体に彼の考えが

送り込まれるようになる。

これは元々危機感を持っていた

軍人たちを

共感させるものがあった。

彼は軍事教育により

優れた参謀を育成し

戦地でのリーダーに

することを目指した。

今までのような上の命令に

従うだけの参謀では

ナポレオン率いるフランス軍には

対抗できないと考えていた。

この後シャルンホルストは

高等な軍事教育を受けさせるため

学校などの設立にも力を入れた。

クラウゼヴィッツや

将来、志を共にする仲間たちも

彼の元で学んだ生徒だった。

シャルンホルストは

学生だったクラウゼヴィッツが

自身を失っていることに気付き

励まし続けた。

これがなければ

後世のクラウゼヴィッツは

なかったと言える。

互いに相手に光るものを

感じていたからこそである。

境遇も似ていた二人は急速に近づき

家族同様の付き合いをする。

それによりクラウゼヴィッツは

どんどん頭角を現す。

共にキャリアを積み

シャルンホルストは

参謀本部次長に上り詰めた。

この時、国王と上司である

参謀総長にフランス戦の

策を提言するが

及び腰で聞き入れられなかった。

その半年後

フランス戦の敗北を迎えた。

『戦争論』の萌芽

クラウゼヴィッツが

戦争論を語る上で

士官研修所に入ってから

1806年の対仏戦で

捕虜になるまでの数年間が

非常に重要になってくる。

この時期の彼のノートに

「フランス人はローマ人の

生まれ変わりか?」という

疑問が書かれている。

ローマ帝国の成り立ちと現在の

フランスが似ていると考えていた。

強国が力を行使することは

否定すべきことではない。

プロイセンの衰退は

国家間の力関係に

目を向けなかったことが

大きく影響している。

国としての独立や尊厳が

失われているのにも関わらず

国民生活が脅かされて

いなかったことが

それを物語っていた。

だから戦争は

各国の国境近くで

行うべきだと言う。

そうすれば国の現実が

国民にリアルタイムで伝わるから

というのが理由だ。

師であるシャルンホルストは

戦争に於いて重要なのは

図式的な戦略方式ではなく

個々の戦役の独自性だと

強調していた。

このこともクラウゼヴィッツに

影響を与えている。

またクラウゼヴィッツが

政治の世界に

精通するようになったのは

政治情勢をしっかり観察し

諸事情の要因とその関連性を探る。

そして一時的な現象の裏に潜む

変わらない特性を見つけて

いったように思われる。

そのために歴史家の眼を持つことが

大事だとも言っている。

そのために選んだ歴史も

身近なフランス革命や

ナポレオン戦争ではなく

三十年戦争だった。

彼は三十年戦争があれほど

長きにわたり続いたのは

将軍たちが戦争の終わらせ方を

知らなかったからだが

昨今の戦争が

あっけない程短いのは

戦い抜く勇気がないから

だとも言っている。

また彼はあくまで理論より

実際を重視した。

個々の人間の心理や偶然は

頭で考えた通りには

コントロール出来ないと考える。

そして歴史に学び研究することで

過去と真剣に取り組み

自分の精神を鍛えることが

戦いのリーダーとしての

重要素であると説いた。

そのことにより

プロイセンの復活を目指した。

しかし現実は

彼の考えに反していく。

※ 三十年戦争

ドイツとスイスの間で行われた

カトリックとプロテスタントとの

戦いで最後にして最大の宗教戦争。

フリードリヒ大王時代のプロイセンの崩壊

クラウゼヴィッツは

21歳で師であるシャルンホルスト

と出会い、2年後に彼の紹介で

プロイセン宮廷に

出入りするようになる。

そこで後に妻となる

マリーと知り合う。

このマリーと後に出会う

グナイゼナウも同様の

考え方・感じ方をする人で

クラウゼヴィッツの

その後に大きな影響を与えた。

クラウゼヴィッツとマリーは

心を通わせるが

身分などが弊害となり

結婚までは時間を要する。

クラウゼヴィッツは1805年

25歳という若さで

大尉に昇進した。

グナイゼナウが30歳。

シャルンホルストが37歳で

就いた地位であることを考えると

異例であった。

それでも社交界での身分は上がらず

王家や貴族に比べると

軍人の地位など高官ですら

危ういと言えた。

当然英国貴族の流れを汲む

家柄のマリーとも

すんなり結婚とはいかなかった。

しかし二人の物の考え方や

政治観は一致しており

ナポレオンを憎み

その気持ちの裏返しとして

愛国心を募らせた。

そしてそれが王家の人々にも

少しずつ影響を与えていった。

このことから

国王の政治的決断に

異を唱える者が

王家にも現れ始める。

そしてそれは

国王フリードリヒや

保守派の側近、軍人たちを

警戒させることになる。

1805年この年から

06年に駆けて

ナポレオンが革命軍をウイーンに

進駐させ、アウステルリッツで

大勝し、西南ドイツ諸国からなる

ライン連邦を、その保護下に

入れたことで、国王の

クラウゼヴィッツに対する

警戒心は強まる。

反対にクラウゼヴィッツは

国王のリーダーシップの欠如

政府や軍事期間の不備が

その後の失態に

繋がるのを懸念した。

クラウゼヴィッツの予想通り

プロイセン軍はフランス軍に対し

後手後手に回る。

たまに取る作戦も中途半端で

その間にフランスはどんどん

勢力を広げていく。

スピードの差が直接

結果に繋がった。

フリードリヒ大王の

側近に頼る政策が

軍との距離を作り

迅速な対応を妨げた。

その後1806年

シャルンホルストは

軍隊の増強及び民兵を組織して

国王と国民の結びつきを

強化する計画を発表した。

このまま戦争に突然し惨敗する。

このことにより

クラウゼヴィッツはより強固な

戦争論の確立へと

気持ちを新たにする。

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