ミニ小説 傑作(迷い込んだ異世界の恋)
微睡み
今日も疲れ切って最終電車に乗る。こんな生活がいつまで続くのか?
40前での課長昇進は悪くなかった。しかしその頃から仕事とプライベートの境が曖昧になり、家庭には寝に帰るだけ。妻との関係も冷え切ってしまった。
子供がいなかった事も災いした。家で一人残された妻は次第に実家へ戻りがちになり、二人だった筈の家庭は、いつしか独身時代に戻ってしまったようだ。
『ただいま!』誰も答える筈もないに、いつもの癖で言ってしまう。ひとり苦笑いしながらリビングへと向かった。
あれ?おかしい。何故リビングの電気が点いているのだろう?朝は点けていく訳はないし……。そんな事を考えていると、「おかえり!」
ん?妻が帰っているのか?「遅かったね。お疲れ様!」そこには見知らぬ女性が立っていた。満面の笑顔で。
部屋を間違えたか?いや、ここは間違えなく自分の家だ。家具もカーテンもテレビも一緒だ。間違ってはいない。断じて。
「あなた、どうしたの?変よ。ご飯は?」その女性は全く動じる事なく、寧ろ怪訝そうな顔をしている。
『ああ、軽く戴こうかな?』女性にやや圧されて、私はそう答えていた。
食卓には、私の好きな筑前煮とブリの照り焼きが用意されていた。
「あなたの好物でしょ?ご飯は、お茶漬けにする?」
何故知っている?確かにその二つは昔からの好物であった。この女は何者なのか?疑問だらけの頭の中を整理しながら、筑前煮を口に入れた。
旨い!味まで私好みだ。「美味しいでしょう?あなたの好きな味よ。」相変わらずニコニコしている。
私は思い切ってその女性に尋ねた。『あの、貴女は何者ですか?』
すると、それまで笑っていた女性の顔が能面のように凍り付いた。そして只、じっとこちらを見詰めている。眉一つ動かさずに。
たじろいだ私は、『ちょっと、トイレに。』そう言って席を立った。
「覚えてないのね。」その背中に掛けられた言葉も氷のように冷たかった。
それが引き金となり、私は異世界へと迷い込むことになる。
◆
雨音が聞こえる。
ポツポツ、トントントン。ポツポツ、トントントン。規則正しく、永遠に続くかの様。
今日は休みじゃないか。微睡の中で再び眠りについた。
インターフォンが鳴る。夢か?いや、誰だろう?いいや。放っておこう。
……ポツポツ、トントントン。相変わらず雨音は続く。
どれくらい眠っていただろう。空腹を覚えて目が覚めた。そう言えば、昨夜から何も食べていないことを思い出した。
コンビニでも行くか。軽く身支度を整え、サンダルを引っ掛け、ドアを開けた。
誰だ。女が一人蹲っている。ちょうど体育座りに、顔は伏せて。
ドアの目の前だったので、危うくぶつかる所だった。
『すいません。大丈夫ですか?』声を掛ける。
聞こえたのか、聞こえていなかったのか。それすら判別出来ない程、女はゆっくりと顔を上げた。
暫くこちらを見詰めた後、「ここは、貴方の?」
部屋か?という意味か?『そうですが。』
再び顔を伏せ、そして唐突に笑いだした。一頻り笑い続け、「……いつから?」
『昨年の暮れから。』答える必要もないが、何故か自然と口をついた。
女は、ため息を大きくつき、「そう。」呟いて、私を押し退け部屋の中に入った。
『ちょっと!』慌てて後を追う。女は、キッチンのテーブルに着き、持っていた弁当箱のナプキンを解き始める。
「お腹空いてない?」上蓋を開けた中を覗くと、……凄い。ごま塩を振ったご飯、しっかり巻かれた厚焼き玉子、色とりどりの筑前煮、見事な照りを見せるブリの焼き物。
「お茶、煎れるわね。」何故か、茶葉の場所まで分かっていた。
先程からの空腹もあって、私は、憑りつかれた様に食べ始めた。旨い。今まで食べた、どのお弁当よりも、圧倒的に旨かった。
『本当に美味しい。こんな旨い弁当、初めてです。』
「美味しいでしょう。好物なの。」お茶を差し出しながら、女は言った。
『貴女の?』女は首を振り、「……あの人の……。」そう言い、寂しげに窓の方を見詰めた。
『もしかしてここ、その彼の?』そう尋ねると、女は苦笑した。
「半年以上、経ってたのね。でも良かった。こうしてお弁当も食べて貰ったし。」
女は、おもむろに窓際へ向かった。
「いい眺めね。ここ何階だっけ?」
窓を開け、バルコニーへ出る。
『15階……。』そう言い掛けた時には、女の姿はなかった。
◆
私は踵を返し、食卓テーブルへ戻った。
「味は……、変わってないでしょ?」女の表情は、最初の柔和なものに戻っていた。
再び私は、憑りつかれた様に食べ始めた。その様子を、笑みを浮かべて見守る女。
ここは一体どこだろう?いや、いつだろう?
いや、私は誰だろう?そして、この女は?
そう言えば、あの後、女の死体は発見されなかった。あの高さから飛び降りた。はずだ。
信じられない。夢だと思いたかった。あの雨の日の微睡の中で。夢と現を彷徨った。
そしてそれは、今も覚めない。……ポツポツ、トントントン……。
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